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現代文の読解力・小論文の論述力 鈴木国語研究所
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大学受験を考える生徒を対象として書いたものです。ですから、高校生・浪人生だけでなく、中学受験生・中学生をも対象とします。
ちょっと長いですが、ぜひ読んでみてください。
なお、「大学受験現国講座・小論文講座」と「大学受験読解・小論文講座」とは同じものです。アニメーションの製作過程で名前を間違えてしまいました。悪しからず。(04/1/7)
高校生の読解力や記述力は、進学校といわれる学校へ通っている生徒でも、極めて低い場合が多いといえます。
その原因としては、
第一に、生徒自身も学校も、現代文を読むということを文学鑑賞のようなものとしてとらえ、文章を論理的に分析して読むという技術的なトレーニングをしていないということ、
第二に、数学や英語などの方が重要だと思い込み、現代文の勉強に関心がうすいこと、
第三に、国語は日本語だから何とか分かるという漠然とした思い込みがあること、
第四に、読解力のレヴェルが低いために、新聞の夕刊の文芸欄で論じられているような現代的問題やテーマについてほとんど無知であり、現代文を受容する知的基盤がないこと、などが考えられます。
そこで、どうすれば読解力や記述力をつけることができるか。
第一に、読解とは文章の論理的分析のことであるという認識に立たなければなりません。論説文については、このことは比較的わかりやすいと思います。
物語文についても、描写された事実からのテーマの抽象という論理的作業が、読解の核心をなします。しかも、そのようなテーマを抽象するためには、描写された事実が、小説の中でどのような役割・意味を持つかを分析しなければなりません。
したがって、論説文・物語文を問わず、読解とは文章の論理的な分析作業であるのです。このような認識に立つ必要があります。
第二に、したがって、読解力をつけるためには文章を論理的に分析する練習を積み重ねる必要があるわけですが、ここで、その論理的分析を容易にし、促進するものとして「書く」という作業が大切になります。
「書く」という作業は、ただ文章を見ているのと異なり、いったん脳内に取り込み再度出力するという作業ですから、文章の内容を確かに認識させます。
同時にこの作業は、脳内への取り込みを通して、さまざまな文章を書くときのデーターベースを形成します。たくさんの文章を真似しているうちに、それらとは異なった自分独自の文章というものが書けるようになるのは、このデーターベースの豊かさによるものと考えられます。同じように人まねから入って、技術を上達させるものに、音楽や踊り、あるいは、絵画などがあります。
さらに、書くという作業をすることにより、文章の論理構造を認識することが容易になります。
よく参考書などの解説の部分で文章を図解してあるのを見かけますが、それに目を通しても読解力はつきません。それを自分で行うことが大切なのです。これは試行錯誤を要する面倒くさいプロセスであるので、多くの人はしたがりません。ここに一つの壁があります。これを超える努力をするかどうかが、読解力をつけることができるかどうかの分かれ目となります。ですから、これをしないで、読解力がつきませんといわれても、それはまったくその通りでしょう、と答えるほかはありません。
そして、この面倒な作業が、実は、同時に、文章を書くということの基本作業を行っていることを意味するのです。したがって、このような「書く」という作業を通じての読解は、同時に記述力をつけることにもなるのです。
第三に、読解力をつけるためには、まず、論理が比較的とらえやすい論説文を使って、その分析を徹底的に練習し、論理的に考える力を磨かなければなりません。
多くの人が、文字を読みながら何かを頭の中に思い浮かべることが、文章を読むことだと考えているようです。たとえば、漫画を読むときの読み方はこのようなものです。しかし、これは抽象性の高い論説文などにはまったく通用しません。このような読み方では、何が書いてあるのか分からず、「アー、もういやだ」と投げ出すしかないことは幾度も経験済みのはずです。
物語文の場合でも、それが抽象性の高いテーマを描いている場合、描かれている事実を頭に思い浮かべることはできても、テーマの把握はできないはずです。これは、事実から「テーマ」を抽象するという論理的な作業を必要とするからです。
つまり、読解とは最初に述べたような論理的分析の作業であり、その力を鍛えるためには、まず論理的な構造が見えやすい論説文を使うのが効果的であるわけです。
そして、この論説文を使い、「書く」という作業を通して、その論理が十分に把握できるまで分析をします。これは先にも述べましたように、時間のかかる面倒くさい作業であるわけです。ですが、ここではそれに耐えなければなりません。
ちなみに、科学技術文明の発達と情報化は、人間に便利さをもたらしていますが、この結果、何でも手間がかからず済むのがよいと、多くの人が考える傾向が出てきています。
テレビショッピングで売れ行き好調のダイエット食品などは、その典型例でしょう。脂肪を固めて排出するから、いくら食べても太らないなどと言っていますが、では、脂肪に解けるビタミンAなども排出してしまうのでしょうか…?
それはともかく、なんでも手間がかからないほうがよいと考える傾向は勉強の領域にも押し寄せてきます。「速読術」などというのもその例です。これについては別に論評するつもりですが、このようなスピード化が困難な領域もあるということです。たとえば、恋愛をスピード化したらどうでしょうか、それは幸せなことではないでしょう。恋人同士はいつまでも離れたくないのですから。それは冗談としても、個人の能力の開発もその根本のところはやはり昔ながらの努力によるしかない、ということです。
昔よりも、情報は早く入手できるとしても、その情報を自己の血となり肉となるものとする能力は昔ながらの努力によるしかない、と言えるでしょう。読解力や記述力をつけるということも、同じように努力のいることであり、手を抜いてうまい具合に力をつけたいなどとは考えるべきではないでしょう。
第四に、論説文を「書く」ことを通して分析しつくした後は、その文章のポイントと論理構造が手に取るように見えるようになりますから、ここでその文章を要約してみます。これは、その文章の内容を再確認するとともに、自分が論説文つまり小論文を書く場合の論述の仕方の練習にもなるわけです。
「小論文の書き方」というような類の本もたくさん出ています。そして、そこでは「まず結論を決め、その理由を書け」というようなことが、書き方として示されています。これ自体はまったく正当で何の異論もないのですが、そのような作業をする論理力は、論説文の読解と要約の練習によって培われるものであるということです。特に内容が高度化すればするほど、この訓練がものをいうはずです。
ちなみに、「要約ばかりやって、小論文を書かないのですか」という質問を受けたことがありますが、これは私から見れば、かなり重症の例です。「要約」ができるかどうかが、小論文を書けるかどうかの鍵になるということを認識していないからです。この種の考え方は、たとえば、ただ文章をたくさん読めば、文章を読んだり書いたりできるようになるとか、アメリカへ留学すれば、英語が読めるようになるだろうとか、いう考え方と類似します。どういう点が類似するかというと、目的に対して方法を考えないという点です。「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」とか、「めくらめっぽう」などと言いますが、根本にあるのが、思考をしない態度である点で重症だといったのです。
第五に、こうした論説文の徹底的な分析と要約の練習は、その筆者の思考を自分のものとして吸収することを意味します。つまり、その文章に関するかぎり、その筆者と同レヴェルに近い状態になるわけです。そして、このような作業を積み重ねることで、さまざまな現代的なテーマについて、やはりそれらの文章を書いている筆者たちに近い問題意識と認識を得ることができるようになるのです。こうなってくれば、大学入試レヴェルの文章に関しては、向かうところ敵なし、と言えるでしょう。また、大学へ入ってからさまざまの文章を読んで、さらに力をつけるための基礎を獲得したと言えるのです。
第六に、このような読解力・記述力というものは、日本語を道具としての思考力そのものであるとも言えるので、暗記科目のように一朝一夕に(暗記科目でもそれは実は困難)身につけることができるものではありません。論理性が育つ小学校の高学年から、中学受験を経て、大学受験にいたるまでの期間(さらにいえば、一生涯)継続して訓練するのが望ましいと言えます。但し、英語や数学のように毎日勉強しなくても大丈夫です。私の指導の経験からすれば、最低限1週間に3時間程度、1つの文章について、集中して分析を行い、要約を書くという作業をコンスタントにすることで、かなり高度の力を養うことができると思われます。この場合、注意していだきたいのは、通常数ヶ月やそこらで飛躍的に力をつけるなどということは困難だということです。
こうして鈴木国語では、1週間に1回3時間の授業で、主に論説文を素材とし、その徹底的な論理的分析と要約を行い、読解力と記述力をつけるというわけです。ただし、コンスタントな継続が必要なことはいうまでもありません。
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