なぜ通信教育をしないのか?
鈴木国語では、現在のところ、通信教育は行っておりません。その理由は以下のようです。長い文章は苦手だという方も1・2は読んでください。
1 鈴木国語では直接授業主義をとっています。
2 通信添削には、疑問があります。
3 遠隔地の生徒に対しては、通信添削は意味があるのでは?
4 テレビによる授業、あるいは、双方向テレビによる授業ならば、直接授業に劣らないのでは?
1 鈴木国語では直接授業主義をとっています。
生徒に学力をつけさせるためには、「なぜそのような答が出てくるのか?」という思考過程を学ばせなければなりません。この観点からするとき、直接のコミュニケーションを通して、思考過程を非常に分かりやすい形で、しかも、容易に、生徒に伝えることができる直接授業には、他の方式に代えがたい魅力があります。それ故、鈴木国語では直接授業主義をとるのです。
2 通信添削には、疑問があります。
このように思考過程を学ばせるべきだという観点からするとき、通信添削に対してはいくつかの疑問が生まれます。
@ まず、もし、思考過程を示すため、添削の結果に詳しい解説をつけるとすれば、それは既存の参考書や問題集の解説と大差なく、それらで間に合うということにもなりかねません。
A また、詳しい解説は、その解説を十分に読みこなすことのできる生徒でなければ、意味をなさないと言えます。読解力のない生徒に、読解力のいる解説を読ませるというのは一つの矛盾ではないのでしょうか。
B 逆に、詳しい解説であっても、それを読みこなすことのできるほどに読解力のある生徒であれば、わざわざ添削を受けるまでもないと言えます。自分で問題を解き、解答解説を読んで、検討するだけで充分であるし、その方が手っ取り早いと言えるでしょう。
C さらに、もし詳しい解説を省いて、添削の結果だけ示すとすれば、それは問題集の答え合わせをしたのと同じであり、わざわざ添削などしなくてもよいことになります。
このように考えてくると、通信添削にはそれをしなければならないような特別の意味はないのではないかという疑問が生まれてきます。
このようなことを考えるとき、鈴木国語は直ちに通信による授業には踏み出せないのです。もちろん、鈴木国語でも、授業の現場では添削ないしそれに類する作業を行います。しかし、それは添削の結果を生徒に示すためではありません。あくまでその結果にいたる過程を生徒に示すために行うのです。
3 遠隔地の生徒に対しては、通信添削は意味があるのでは?
授業に直接参加することが困難な遠隔地の生徒に対しては、通信添削は意味があるのではないか、と考えられなくもありません。しかし、その効果は授業の現場におけるものよりははるかに低いと考えなければならないでしょう。
「それでも、通信添削をするのか?」、「だから、通信添削はしないのか?」、この問題は、その塾が直接授業にどれほどの価値・プライド・こだわりを持っているのかによると思います。鈴木国語は直接授業に最高の価値・プライド・こだわりを持っている立場より、たとえ遠隔地の生徒のためであっても、通信添削を始めることには躊躇せざるを得ないのです。
4 テレビによる授業、あるいは、双方向テレビによる授業ならば、直接授業に劣らないのでは?
@ 通信添削よりも、テレビによる授業、あるいは、双方向テレビによる授業の方が効果が高いと思われます。しかし、それでも直接授業よりは劣るでしょう。
A 現代は通信手段が爆発的な勢いで発達しており、あたかもそれによってすべてのことが解決されるかのごとき幻想も生まれてきます。しかし、通信手段はあくまで通信手段であり、コミュニケーションの本質を変えるものではありません。その外郭をサポートするものに過ぎないのです。たとえば、どんなに通信手段が発達したところで、恋人同士は会わないで愛し合うということは望まないでしょう。買い物の場合でも、本当に自分の好みに合ったものや質の高いものを買おうと思えば、やはり、現物を見て買うのが一番よいでしょう。通信手段は直接合えないときにだけ役立つだけなのです。授業だって同じです。通信手段が発達しても、生徒と教師は対面したほうがよいのです。
これは、授業というものを、情報伝達の手段としてだけ考えるか(いわばデジタル論)、それとも、そのような情報の伝達を中心に置きつつも、なお他の要素も含むものとして考えるか(いわばアナログ論)の違いの問題となるでしょう。
C 授業は純粋の情報それ自体ではありません。そのような情報を中心に置きつつ、種種雑多の分析しがたいような要素を含むのです。その一つの要素のみを取り出せば、それがマイナスに見えるようなもの(例 教師が字を間違えた)であっても、他の要素(例 生徒がおもしろいと思うこと)と呼応し合うことによって、全体として生徒の学力をつけることに資するのです。
環境問題にしろ、人間社会のあり方にしろ、時代の理念は多様性・混在性に価値を見出す方向にあることも思い出して頂きたいと思います。授業にもそれに似た面があるのです。アナログ録音されたレコードに今なおこだわりを持つ人々がいるのは、彼らが、デジタル録音では不必要として排除されてしまう音(いわば雑音)の効果に価値を見出すからです。
授業にもそのようなアナログ的な面があるのです。
D おそらくこのようなアナログ授業=直接授業のメリットは、双方向テレビによるコミュニケーションが可能になったとしても、なおそれに勝るものであると思われます。これは推測の域を出ませんが、催眠術の達人でも、テレビで催眠術をかけることは、著しく難しいのではないかと思います。直接授業と双方向テレビの違いはこの辺りにあるのではないかと思います。教師は生徒に催眠術をかけるわけではないのですが、生徒を演劇の世界に引き込むような面はあるでしょう。その効果は、やはり、直接授業が一番でしょう。他のたとえを使ってみれば、授業は食べ物のようなものだとも言えるでしょう。食べ物は実際に味わってみなければ、どんな味がするのか分かりません。テレビではこれは無理です。
鈴木国語は、このようなわけで直接授業へのこだわりを捨てることができないのです。鈴木国語は、鈴木が一人で、ニ台のコンピューターを操りつつ運営している塾であり、通信手段に疎いわけではないのですが、なおしばらくは直接授業にこだわり、その技術を高めたいと思っております。このようなわけで、鈴木国語では通信による授業は今のところしないのです。
なお、通塾時間は無駄ではなく、その通塾時間を利用して勉強したり、読書をしたりすればよいのです。
なお、鈴木国語のこのような直接授業主義に対しては、双方向テレビなどの技術を駆使し、かつ、授業方法を探求・工夫することで、限りなく直接授業に近づくことも試みるべきだとの批判ないし提言も可能であると思います。これは鈴木国語自身も考えていかなければならない課題です。
o 