君たちの勉強について「一言…」

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君たちの勉強について「一言…」と思ったけれど、一言では終わりません。       

同じ問題を繰り返しやることは無意味だろうか?

一度やった問題をその場でやり直してすら、完璧にできる生徒は非常に少ないといえる。
特に記述の問題になるとできない割合は非常に大きくなる。
したがって、一度やった問題だと答を覚えているから、やる意味がないなどいうことは言えないはずである。

もしその生徒が、例えば「ア」という答を覚えているから、「ア」という答を書けばよいと思っているのだとしたら、そのいい加減な勉強態度をまず反省する必要がある。
向上心のある人間は、「ア」という答を見つけ出す過程を反復練習し、それを自分の技術とするために復習する。
だkら、「ア」という答を覚えていても、「ア」と書いて満足はしないはずだ。はっきり言えば、そんなことで満足している馬鹿に受験資格などない。
同じように見えることを繰り返しながら、同じでないものを目指すのが向上心であり、その現れを努力という。
裏返して言うならば、同じことを、静かな集中力を持って繰り返すことのできない人間に進歩や向上などはありえないというべきだ。

一般に、繰り返しの面が非常に軽視されている。
塾としては、同じ問題ばかりやっていたのでは、仕事をしていないように見られるのではないかという不安があるために、あるいは、同じ問題は答を覚えているから役立たないという生徒と同レベルの考えから、あるいは、生徒に余裕を与えてはならないという方針から、次から次へと宿題プリントを出したりする。
しかし、パワーの乏しい生徒にはかえって効果がないというのが本当のところだろう。また、勉強のできる生徒にとってはかえって邪魔であるともいえるだろう。
生徒の成績を伸ばすためには、じっくりと考えさせて理解を促進し、その成果はいく度か反復練習させて、「すばやく処理できる技術」として体得させる、ということが大切なのだ。
つまり、繰り返しには無意味ではなく、必要であり、有効であるのだ。

ただし、以上のことは、いつまでも同じ問題をくりかえしやっていればよいなどという意味ではない。
必要かつ有効な範囲の繰り返しが必要であると言っているにいすぎない。

ちなみに、算数のあまり得意でない生徒は、「分かった」という状態に満足しているだけで、その成果が自分の技術として体得されるまでは自己訓練をしていないのが普通だ。
これは「家で考えればできるんだけど…」という無意味な言い訳の言葉となって表される。
本当は「自分は試験に対応できる技術を持つまでの自己訓練はしていない」と言うべきなのだ。
このような生徒は、何度も同じ問題を繰り返しやり、瞬間的に反応できるまで自己訓練する必要がある。これは国語の場合でも基本的には同じだ。


模擬試験の成績情報に関しては注意が必要だ。

偏差値がよくても、自動的に合格できるわけではない。
偏差値が悪くても合格できないわけでもない。
合否は、試験本番で爆発的な力を発揮できるかどうかにかかる。
これはもちろん本番の試験までに力を発揮できる実力を蓄えることが前提となるが、その過程である実力のつけ方・蓄え方は個人によって違うと言うことに注意すべきだ。

早い段階からよい成績を取る生徒もいるが、そういう生徒も5人に1人くらいは本番の試験で失敗する。
合格可能性80パーセントいうのはそういう意味だ。

失敗の原因としては、体調・運などさまざまな事情もからむだろうが、実力が発揮できるように、自分の内部の様々の要素を活性化し統合できなかったことは間違いない。
それを可能にするものは、日々の努力と反省・工夫という手ごたえのある現在進行の営みに他ならない。
しかし、なまじ成績が良いと努力・反省・工夫という「あがき」がなくなるために、成績がよいという外形を保ちながら、実力が抜け落ちるという骨粗鬆症化現象が起きることがある。
成績のよい生徒の失敗の本当の原因はこれなのだ。
だから、成績のよい生徒は常により高いものを求める努力を怠ってはならない。
例えば、国語の記述の場合、かなりできる生徒でも、完璧ということはない。
だから、腕前に磨きをかける余地は無限に有る。

今の段階では成績の振るわない生徒も、実力を蓄えるべき勉強をすれば、本番の試験では好成績で合格できるということも起こってくる。
この場合に必要なことは、自分の勉強した結果を確実に使えるものとして確保していくということであり、そのために、勉強の範囲をある程度狭く限定することだ。
例えば、勉強のよくできる生徒が5項目をやるところを、自分は3項目にするというように、勉強範囲を限定し、それについては完璧にマスターするということをすべきだ。
思考や知識が確実化すれば、今やり残したことも後ですぐにマスターできる。
しかし、一夜漬けに近いようなうろ覚えの勉強を続けていると、結局は力をのばすことができないで終わる。

毎年、多くの受験生が、人と同じ事をすればよいように思い、みんなと同じ平凡の状況を抜け出すことができないまま、受験本番を迎えている。
状況を打ち破るためには、みんなと同じことをやっていれば安心というような姑息な先入観念を取っ払い、独自の根本的な対策を講じなければならない。
そうして、奇跡とも言える合格を果たせば、その経験は自分の生涯の財産となるであろう。



「気合を入れる」「がんばる」などの言葉には注意が必要だ。
これらの言葉はだれもが気軽に口にできる。その点では、だれにでも平等に与えられている言葉だ。では、このだれにでも平等に与えられている言葉を、みんなで唱えているのに、なぜ合格の結果はみんなに平等に生じないのか。この言葉は受験を突破するための実力をつける言葉ではないからだ。大切なのはこんな言葉など唱えずに、黙々と有効な勉強を重ねる実際の行動なのだ。

塾へ行くから勉強できるようになるのか? 自分で勉強するから勉強できるようになるのか?

勉強は本質的には自分の問題であり、塾はそれをサポートするためのサービス業に過ぎない。
したがって、後者が本質であり、塾へ行くから自動的に勉強できるようになると思いこむのは、自分の人生の放棄ですらある。


宿題を出せば生徒が勉強できるようになるのか? 
宿題をやったところで、その結果を自分のものとして確保しなければ力はつかない。
むしろ、その場でしっかり考えさせ、教え、身につけさせる方が、勉強できるようになる。


長時間勉強することが大切なのか? 
人間はある程度眠らないと半病人のような状態になり、力が発揮できない。
そのほか食事をしたり、風呂に入ったり、ニュースを見たりとさまざまなことをしなければならない。
したがって、勉強時間は限られている。
したがって、多くの勉強をしようと思うなら、勉強の密度を高めることが必要なのだ。

これは短時間の繰り返しを無数に行うという極めて単純な訓練によって可能になる。
その意味で、10分で漢字100問というような繰り返しの能力をつけると、これを核としてほかの勉強もきわめて能率的にこなせるようになる。
これは暗記科目ばかりでなく、思考科目の処理についても役立つ。
ただジーっと見つめて、ボーっと思考を止めているよりも、大量多種類のことをどんどん考え回すことを基本にし、分からないことや結論の得られないことは保留しておいて、再び考える、ということをすると、多くの問題が自然に氷解していく。


国語のヤマについて

鈴木国語ではかつて「ヤマ」をあてようとしたことがある。
それは実際いくつかは当たった。これはヤマを当てることで、鈴木国語の宣伝になるのではないかと私が思ったからだ。

しかし、注意して欲しいのは、国語の長文読解の場合、「ヤマ」というものは徹底的に理解し、自分の血となり肉となるようなものとしておかない限り、きわめて危険なものであるということだ。
うろ覚え程度のいい加減な知識を持っていると、本番の試験で、よく読まない、あまり考えない、混乱する、答を決め付ける、思い出そうとする、などの弊害が生じ、思考を研ぎ澄ますことができなくなる恐れがあるからだ。
これらの弊害は不合格を招くきわめて危険なマイナス要因である。

試験に受かる生徒の大半はヤマなんて当たっていないが、実力で点数を取った生徒たちである。
むしろ試験は、ヤマが当たることはないという前提で、それでも十分に戦えるという実力をつけて臨むべきだ。
試験問題は実力さえつければ、それで充分に戦えるものだからだ。これが受験勉強の本質だ。
試験問題は、馬券や宝くじとちがい、偶然によって左右される要素はきわめて小さく、ほとんどは努力によって克服できる要素から成り立っている。

最近の中学受験をめぐる「情報」の氾濫には注意が必要である。
少なくと、入試に出やすいと言われる小説を斜め読みした程度で、試験問題で点数が取れると思うのは大間違いだからだ。


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