受験情報はどの程度役立つか                           


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受験情報を好きな人がたくさんいます。しかし、受験情報を得ても合格できるわけではありません。まして、受験情報に翻弄されているようではどうしようもありません。大切なのは、実力をつけることなのです。そこで、受験情報と言われるものについいて、どの程度必要なのか、一つ一つ考察してみました。 (07/01/17)

第一に、受験する学校の場所・電話番号・URL・メールアドレスなどの情報は不可欠だ。

第二に、受験する学校の受験日・受験科目・試験時間。試験場への入室時間などの情報も不可欠だ。

第三に、その学校の授業構成や行事その他制度についての情報はどうだろう。これらも一応不可欠なものといえるだろう。「一応」と言ったのは、たとえば、その学校の英語の授業時間が週8時間あるという情報があるとしても、それで、直ちに英語の力がつくとはいえないからだ。授業内容が力をつけるようなものではないこともあるかもしれない。授業内容がすばらしいとしても、その生徒が力をつける意志を持ち努力をしない限り、力がつくということはないからだ。つまり、これらの情報は自分から主体的に生かそうとする者にとっては大いに意味があり、その点で不可欠と言えるが、単にそのような環境の中にいるだけで満足し、環境に主体的に働きかけない者には無意味でしかない。勉強は風呂につかっていることとは違うのである。

第四に、校風などについての情報はどうだろう。これも一応不可欠だ。しかし、その情報をもとに想い描く学校のイメージはあくまで想像の域を出るものではないので、本当にその学校が自分の気に入るかどうかは、その学校へ入ってみるまでわからない。また、自分には合わないかもしれないと想像した学校が、意外にも自分にあっているということもある。つまり、校風についての情報も一般的なものであり、それぞれ個性を持ち、さまざまに変わっていく一人一人の人間に直ちに当てはまるものであるとはいえない。しかし、一般に多くの人からよいと認められている学校は、一般にはよい学校であるといえるので、校風に関する情報もその一般的な限度で必要なものである。

第五に、受験する学校の競争率が何倍かという情報はどうだろう。
たとえば、受験する学校の競争率が1倍なら、ほぼ全員合格するという見通しは立つ。しかし、ほぼ全員合格するのであれば、それは入学試験をする意味はほとんどないということだから、そのような学校は「受験」する価値のない学校だということになる。したがって、競争率1倍という情報は「受験」情報としてはほとんど意味のないものである。

では、競争率2倍から3倍という情報はどうだろう。これはある程度役に立つ。ただし「3倍だからきつい」とか、「2倍に下がったから楽になった」とかいうふうに「役に立てる」べきではない。例えば、競争率2倍の場合でも、自分の試験の点数が受験生の50パーセントの者よりも低ければ、その受験生は厳然として落ちるのである。その受験生にとって「2倍に下がったから楽になった」などということはないのである。

たとえば、競争率が10倍という情報はどうだろう。「10人に1人しか受からないのでは、到底受かる見込みはない」という風に、この情報を「役立てる」べきだろうか。しかし、それでもその学校に合格する者は200人くらいはいる。この受験生たちは競争率10倍という情報を「10人に1人しか受からないのでは、到底受かる見込みはない」という風には「役立て」ていない。だから、受験して合格したのである。

そもそも、「受験」という「競争」が成り立つ領域で、「合格する」とはどういうことだろう。トップの点数で合格することもあれば、最下位で合格することもあるだろう。しかし、最下位合格ですら、競争率2倍なら、その学校を受験した受験生の半分以上よりは高い点数を取っているのである。それはそのような点数を取るべき受験勉強という戦略をもった努力をしたからである。

つまり、競争率に関する情報を不安材料や安心材料として「役に立てる」ことには意味はない。競争率に関する情報はその中学に合格するための戦略的努力をするための材料として役立てるべきなのである。

第六に、合格可能性80パーセントとか、25パーセントとかいう情報はどうだろう。あるいは、偏差値68とか、21とかいう情報はどうだろう。これも一応は不可欠だ。12月の模擬試験で偏差値25の受験生が、偏差値70の学校を受けて合格する可能性はほとんど皆無に等しい。しかし、次の点に注意する必要がある。

まず、その模擬試験で偏差値70をとった者が、偏差値68の学校の本番の試験で必ず合格するという保証はない。偏差値や合格可能性はまるで合格保証のようにとられることがあるが、ここに恐ろしい落とし穴がある。力というものは固定的なものではなく、温度のように変わりやすいものだからだ。もし、そうでなければ、大学受験生は大学入学後も高い英語力を維持しているはずだが、入学すると同時にどんどん劣化させている者は珍しくない。つまり、力というものはいつも劣化していくものだと思ったほうがよい。したがって、常に維持するための努力が必要となる。偏差値的に高い者は、その受験においてはほぼ完成状態にある。そして、完成度が高ければ高いほど多くのことを綿密に勉強しているので、それを維持する努力も大きなものを必要とするようになる。ところが、高い偏差値を取るとその自分に満足してしまい、更なる維持練磨の努力を怠りがちになるものがでて来る。人間は程度の差こそあれ、こういった傾向を持つ。その傾向が強い人間が、高偏差値にもかかわらず、受験本番で失敗する。その確率は5人に1人程度。故に、最大合格可能性は80パーセントとなる。したがって、どんなによい成績をとっても、本番の試験が終わるまではたえず努力を積み重ねなければならない。

次に、12月の模擬試験で偏差値60の者が、偏差値70の学校に合格することは不可能か、ということを考えてみる必要がある。この場合、「運」と言うような偶然的要素・ばくち的希望は論外とする。

私は不可能ではないと思う。ただし、条件がある。その者がこれまでこつこつと努力を重ね、基礎力が充実してきていること、そして、その結果、テストへの対応力が増して、成績が上り調子あるということ。

成績というものは、正比例のグラフのようには伸びないものだ。例えば、地震のエネルギーは次第に地殻に蓄えられ、ある臨界点に達したときに一気に放出されるのであろうが、成績の伸びというものも、それに似ている。努力をしてもなかなか点数が伸びない「臥薪嘗胆」の期間を経て、それでもあきらめないで努力をし続けたときに、ある時点から急激に伸びてくるものなのである。成績評価は点数で表すため、その伸びというものも量に正比例するように錯覚されがちだが、成績の元になる実力の変化は量的なものというよりも、むしろそれを超える質的な転換(革命・爆発)であると言える。故に、上に述べたような条件の下で、偏差値10を飛び越えての合格ということは不可能ではないと思う。

別の観点からすれば、不得意科目に対する早い段階からの取り組みとそれを克服しようとする努力、さらに、なかなかよい点数が取れなくてもめげない粘り強さが大切である、ということになる。不得意科目の克服には得意科目を勉強する場合の十倍くらいの努力を必要とするような感じがする。

このように考えてくると、偏差値によって自分の受験校が決定されるような考え方は根本的には間違っていると言うことになる。勉強の出発点では偏差値など取っ払って、いかに自分として力をつけるかという戦略と、それを実行していく努力をすることが大切なのである。

第七に、傾向と対策という情報はどうだろうか。これは必要条件ではある。しかし、充分条件ではない。つまり、傾向と対策は必要ではあるが、それによって合格できるわけではない、ということだ。

たとえば、あるトップ校の国語の問題が、選択中心の形式から記述中心の形式に変わったことがある。すると、大手塾は、「新傾向」「K校記述対策」というような看板を掲げた。

で、その大手塾はそれ以前は、どのように言っていたのか。「K校は算数重視で、国語は分量はともかくも、選択ができればまあ大丈夫でしょう。」 昨日まで軍国主義を支えていた人間が、今日は民主主義を支持するというほどの豹変ふりではないが、私は大手塾の態度には欺瞞的なものを感じざるを得ない。

傾向と対策よりも、もっと根本的な力を養う必要があるのだ。「読むことも書くこともできる力」をつければ、選択問題中心から記述問題中心に傾向が変わったとしても、別に驚くことはない。傾向と対策ということを強調し、あたかもそれで合格できるかのごとく宣伝するのは、実は、片手落ちの不完全な力しかつけない、ということを意味するものと言えよう。

それに「傾向と対策」というが、本当に傾向をつかみ対策を立てているのか疑問な面がある。「そっくりテスト」というものを見せてもらったことがあるが、どこがそっくりなのかさっぱりわからなかった。「そっくり(落ちる)テスト」なのか。

なお以上のことは、傾向と対策を無視してよいと言うことではない。必要条件としての限りでは傾向と対策は必要である。ただし、あくまで必要条件として。充分条件は根本的な学力の涵養にある。ちっとも似ていない「そっくりテスト」など受けているのは時間の無駄というものだ。

第八に、傾向と対策ということに関連して、もう一つ。選択問題ばかりが出る中学を受験するとすれば、記述の勉強は必要ないのではか、という問題がある。逆に、記述の問題ばかりが出る中学を受験するとすれば、選択の練習は必要ないのではないか、ということも問題となる。結論から言えば、どちらも間違いである。根本的な力を身につけるためには、どちらも必要である。そして、根本的な力をつければ、どちらも同じことの裏表に過ぎないことが分かるのである。正確に文章を読み、正確に書くということは、選択問題の選択肢の正誤を正確に見分ける力と表裏をなすといってもよいからである。

一般には、記述の問題と選択問題が対極にあるもののように思われがちであるようだが、そのことの一つの原因は、おそらく、記述というものがどこか曖昧なもの、あるいは、曖昧さを許容するもの、さらにいえば、どのように書いてもよいものと思われていることにあると思われる。しかし、このようないい加減な記述観は間違いである。記述ということはできうる限り正確にすべきものである。そうでなければ、そもそも論理ということが成り立たない。また、詩のような芸術作品の言葉も、そのテーマをあらわすために動かしがたく選び抜かれているとき美しいといえる。そのような言葉の取捨選択は論理によるものである。

また、もう一つの原因として、どこかの誰かが問題の外面に注目して、「記述」と「選択」という言葉の対比を行ったときから、人々がこの外面的な言葉の対比に引きずられ、その本質をよく考えないまま、両者が対極にあるもののごとく考えるようになっているのかもしれない。

さらに、もう一つの原因として、できるだけ余分なこと(?)は勉強しない方が効率的に受験勉強を進めることができるという思い込みがあるのかもしれない。つまり、「選択型の問題の試験問題がでるのだから、記述の勉強は余分なことだ」とか「記述型の問題がでるのだから、何よりも記述の勉強しなければならない」とかいうように。こういういわば偏食の傾向は現代社会のいたるところに見られるが、はたして正しいだろうか。たとえば、太りすぎないために、脂肪分や糖分を徹底的に排除した食品を摂取するというようなことが、非常に多くの人に(特に女性に)受け入れられているようである。しかし、脂肪分や糖分だって一定限度肉体にとって必要なものだろうし、運動をしつつ適量をとっている限り、特別太るというようなことはないのである。また、運動をしないでやせた場合には、筋肉や骨の劣化が起こりうるのであり、結果的に、老化を早めることになるだろう。おそらく情報化ということは物事を部分化するものであるため、人々は全体像をとらえられなくなっているのだろう。勉強についても、外面的な様相の違いや部分ばかりを見て、全体や本質をとらえるということがなされなくなっている。「急がば回れ」とか「学問に王道なし」というように、速成を求めることを戒めることわざは、受験勉強にも当てはまると言える。受験勉強は学問と言えるほどのものではないとしても、その入り口ではあるのだから、しっかりした基盤を作ったほうがよいし、それを作ったとしても、学問と言えるほどのものではないが故にそれほど時間がかかるものでもないのである。むしろ、基盤がしっかりすれば、勉強の効率はよくなるとも言えるのである。

いずれにせよ、「選択」「記述」という対比も外面的な情報に過ぎず、これを鵜呑みにし、鸚鵡返しにしていてはいけない。もっと根本的な力をつけるべきである。

最後に国語の「ヤマ」という情報について。

鈴木国語ではかつて「ヤマ」をあてようとしたことがある。それは実際いくつかは当たった。これはヤマを当てることで、鈴木国語の宣伝になるのではないかと私が思ったからだ。

しかし、注意して欲しいのは、国語の長文読解の場合、「ヤマ」というものは徹底的に理解し、自分の血となり肉となるようなものとしておかない限り、きわめて危険なものであるということだ。うろ覚え程度のいい加減な知識を持っていると、本番の試験で、よく読まない、あまり考えない、混乱する、答を決め付ける、思い出そうとする、などの弊害が生じ、思考を研ぎ澄ますことができなくなる恐れがあるからだ。これらの弊害は不合格を招くきわめて危険なマイナス要因である。

試験に受かる生徒の大半はヤマなんて当たっていないが、実力で点数を取った生徒たちである。むしろ試験は、ヤマが当たることはないという前提で、それでも十分に戦えるという実力をつけて臨むべきだ。試験問題は実力さえつければ、それで充分に戦えるものだからだ。これが受験勉強の本質だ。試験問題は、馬券や宝くじとちがい、偶然によって左右される要素はきわめて小さく、ほとんどは努力によって克服できる要素から成り立っている。

その意味で、「読書情報」」にも注意が必要である。一般には「読書をすると読解力がつく」と信仰されているようだが、少なくとも小説を斜めよみした程度で、試験問題で点数を取れるような読解力がつくと思うのは大間違いである。きちんとした論理的分析を行って読む癖(精読)をつけて初めて読解力がつくのである。したがって、そういう意味の読書なら「読解力がつく」と言えるが、そうでない読書をしても読解力はつかないといえる。ただし、このことは読書がいけないということではない。単なる読書と読解力とは別問題だといっているだけである。


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