志望校過去問指導

2022年度志望校過去問指導について

20229から、志望校過去問指導をします。無料です。

 

1 提出の仕方についてのご注意!(および返却の仕方)  
  必ずお守りください!

次の、原則に従って、過去問を解き、提出してください。

一週間後に、アドバイス(単なる添削ではない。プリント・口頭によるアドバイス)をつけて返します。

  

① 第一回の提出は、9月第一回授業から受け付けます。したがって、第一回の返却は9月第二回授業となります。

 

② 提出日から1週間後に返します。

振替により提出日の3日後に次回分授業に出席するというような場合にも、1週間より早く返すということは原則としてありません。

 

③ 第一志望校試験問題五回分、第二志望校試験問題3回分を見ます。第三志望校については見ません。

第一志望校の、第一次試験問題と第二次試験問題は合計5回の範囲で見ます。第三次試験の問題は見ません。

あるいは、第一志望校の第一次試験問題、第二次試験問題、第二志望校試験問題を合計8回分見ます。

組み合わせは自由です。

なぜ、5回プラス3回しか見ないのか、その理由が重要です。
  
→3 なぜ、5回プラス3回しか見ないのか?

 

④ 一度しか見ません。一昨年までは幾度か見るということをしてきましたが、昨年からやめています。

その理由が重要です。→4 なぜ一度しか見ないのか?

ただし、自力で過去問を解いた内容が極めて発展可能性に満ちているような場合には、「もう一度やって持ってきなさい」、と言うかもしれません。

また、11月初めごろから、これまで提出した問題の二回目提出を許可するかもしれません。しかし、それはきわめて完璧なものをとしてやり直されている必要があります。いい加減なものを提出すると怒鳴り倒します。

 

⑤ 返却の時間帯 月・水は、午後4時から450分。午後840から9

         土は、午前8時から825分。12時から1230分 

Zoomによるアドバイスもこの時間帯が原則ですが、こちらはまた別に(個別に)対応を考えます。

 

⑥ Zoomによる指導を受ける場合、問題の提出は、問題文と答案をPDF化し、メールに添付して送ってください。受講日までに届くようにしてください。WinZipは使わないでください。

あて先は普段通常授業で使用しているGmailのアドレスです。

曲がったり陰のあるようなスマホ写真は見ません。大量のものを処理しなければならない点にご配慮ください。

 

⑦ 冬期講習中は過去問は見ません。
  
12月は第三回授業提出分まで見ます。

  1月は、第一回授業提出分と第二回授業提出分のみ見ます。

 

2 問題をやるときの注意!    必ずお守りください!

   一回分(問題文・問題・解答用紙〈なければ必要なし〉をコピーしてやってください。幾度もやり直すためです。

    原則として、第一志望校の問題から解いてください。

    原則として、20222021202020192018というように、新しいものからやることをお勧めします。

ただし、この順序は必ずしも守らなくても差し支えありません。

   漢字などの知識問題のマルつけは自分でして、間違えたものや知らなかったものはその場でマスターしてください(当然の事)。記述問題・選択問題のマルつけはしないでください。見づらくなります。

   記述問題はすべて自力で解いて解答欄を埋めて提出してください。たとえ間違っていても、時間がかかっても、これをしなければ、本番で書ききる力はつかない。

   記述問題は、文中の根拠に線を引くなど、思考過程が分かるようにやってください。

   選択問題は、何を根拠に×とし、何を根拠に○としたのかが分かるように文中に、線などを引いてください。

   また、選択肢のどの部分が間違っていると考えたのか分かるように、その部分に線を引き、×をつけてください。

* このような作業をするために、問題文をコピーする必要があるのです。

   めんどうでも⑤⑥⑦⑧作業をしなければ、過去問題を解く意味はない! 

* こうして自分でていねいにチェックしてみるという作業を通して、初めて志望校の傾向を体得することができるのです。また、正答を出す技術を磨くこともできるのです。

志望校の傾向を研究し体得するために過去問題を解くのですから、時間を計ってやる必要はありません。

   ただし、だらだらやってはいけません。家でやる時にだらけないようにするためには、1回分を23分割し、23日に分けて、それぞれの部分を30分くらいでやるという方法もよいと思います。

 

時間の練習は模擬試験や鈴国の復習テストなどですれば足ります。 家という環境では、教室や試験場という環境とは違い、集中力が緩くなる傾向がありますから、その点からしても時間制限はある程度緩くてよいといえます。その半面で、分割してやるなどの集中力維持の工夫がいるのです。

 

 

 

 

3 なぜ5+3しか見ないのか?  *以下「ですます調」は使いません。

算数や理社であれば過去問を10年分くらいやってよいし、むしろやるべきだ。私なら、算数や理社は、塾など行かないで、過去問を中心に置いて、そこにおける考え方や知識、記述の仕方を徹底的にマスターする。そのほうが、短時間で力をつけることができる。(新興の武田塾は類似の方法をとるものと思わる)。ただし、国語にはこの方法は通用しにくい面がある。

 

受験の算数や理社は、どちらかというと、知識を習得しそれを当てはめて問題を解くという演繹(えんえき)的な方法を中心とするものであり、習得すべき知識も範囲が明確である(例えば、つるかめ算の解き方)。国語でも漢字テストはこのような性質を持つ。

 

これに対して、読解・記述・選択では、文章からその内容をくみ上げてくるという帰納(きのう)的方法を中心とする。その際、文章内容の論理的分析・整理・把握、概念化、議論というような作業を必要とするが、これ自体をまとめて「読解の仕方」というような形で述べても、初心者には実感の伴わない抽象的なものであり、役に立つものとはならない。例えば、「物語文の主題を象徴する表現の内容を読み取るためには、主人公の気持ちの変化を、マイナス状態→変化のきっかけ→プラス状態ととらえ、その精神的成長をもとに象徴表現の内容を考える」と述べたところで、ほとんどの生徒にとってはちんぷんかんぷんであるはずだ。こういったことを、一つ一つの文章の読解を通して、具体的に学び、経験化していくほかないのが、読解・記述・選択なのであり、いっぺんにたくさんできるようなものではないのである。むしろ5回分くらいをしっかり(徹底的に)マスターしたほうが力をつけることに資するのである。ちなみに、理社や算数にもこういう面がないとは言えないが、問題がコンパクトにまとまっているため、取り組みやすく習得しやすいのである。

 

つぎに、過去問を解けば合格できるというような迷信がはびこっているが、間違っている。

2021年度と2022年度とは、形式は似ているかもしれないが、国語の場合には内容はまったく異なるとも言ってよい。その内容に対応するには、読解力、記述力、選択力といった実力を身に着けるしかない。これは上に述べたような地道な作業努力をへて培うしかないものであり、ただむやみにたくさん過去問を解くなどまったく意味をなさない。むしろ、まったく力をつけないで終わるのがおちだ。

 

そんなに過去問だけで力がつくものなら、なぜ過去問のほかに通常授業もやるのかその意味が分からない。過去問だけやっていればよいはずだ。 そもそも、ただたくさん国語の過去問を解けば、力がつくというのなら、国語は極めて楽に成績を伸ばすことのできる科目であるということになるはずだ。では、なぜみんな国語の成績が伸びなくて苦しむのか。ここには、上に述べたような国語の根本にかかわる他の科目とは異なる特質が潜んでいる。

 

そもそも、鈴木国語の受業内容は、過去問の指導などしなくても、どこの中学でも合格できる内容を持っている。その国語の魂をマスターしようとしないで、「過去問、過去問」とバカ騒ぎをしているのは、気がふれているとしか思えない。

 

国語の過去問は、5回分+3回分で十分だ。

大切なことは、いい加減に量をやるのではなく、その限られたものを、問題以外の部分もしっかりと理解するくらいに文章を読み込み、速く正確に解ける(選択でき・記述できる)ようにすることだ。これは「身に着ける」ということだ。

 

いったいこの「身に着ける」ということは、どこへ行ってしまったのか。猫も杓子も、次から次へと情報を受け取り、それを身に着けずに流してしまって、勉強しているような自己満足の幻想に酔いしれている。渋谷でハローウィンのバカ騒ぎに参加すれば、自分の存在価値が証明できると思っているたわけどもと同じではないか。無意味な儀式やバカ騒ぎを繰り返しているよりも、自分の手ごたえを得られる確かなものを自分の中に作り出すべきだ。

それこそが、受験でも受験以外でも通用する実力である。

 

ちなみに、2022年度の過去問は最後にとっておいて、10年分の過去問をやった後に、どのくらい力がついたかを試すために2022年度の過去問をやるという塾がある。算数・理社については(それぞれの過去問を徹底的にマスターすることを前提とするときは)これはある程度意味があるかもしれない。しかし、国語については全く無意味である。すべての過去問を、テスト用にではなく、力をつけるために利用すべきである。

 

4 なぜ1しか見ないのか?

 

まず、私はその問題に関してほぼ完ぺきな答や解法を示している。したがって、それをその通りにマスターすればよいのであり、二度も三度も私が見る必要はない。

 

例えば、算数の解法と答を示した場合、その後に必要なことは、それを徹底的に自分でマスターし自分のものとするということだ。やり直したものを私に見せることに意味はない。徹底的に身に着けることにのみ意味がある。

 

同じように、国語の過去問も

私が示した答えが、寸分たがわず再現できること。

それにいたる論理過程が自分で説明できること。

そういう作業を早く正確にできること。

 

それは、自己トレーニングの問題であり、やり直したものを私に見せるという儀式の問題ではないはずだ。

一旦アドヴァイスをした以上、そこから先は自己トレの領域になる。私が再度解答を見直す必要はないはずだ。

 

こういう自己トレーニングをしないで、ただいい加減に解いたり写したりしたようなものを、私が見直すとすれば、それは甘やかしではないのか? いい加減なことをしている生徒を甘やかせば、その生徒は本番の試験で落ちるだけだ。

 

ちなみに、「これでもいいのですか?」という質問はすべきではない。そういう質問のほとんどは、4分音符を2分音符に変えてあったり、ドの音がソの音になっていたりするものに過ぎない。そんな質問をしている時間があったら、基本となる型をきちんとマスターすべきだ。それを徹底的にやるべきだ。基本となる型をマスターするまで、幾度も復習を繰り返すことが大切だ。いい加減に解いたものを幾度も持ってきても見る価値はない。それを見てやるのは、不勉強に対する甘やかしにほかならない。

 

一見きちんと解けているように見えるが、しっかりした実感に裏打ちされないものは、自分で実感を得るまでやるべきだ。自分でしっかりわかり早く正確に解けるという実感を得ることが、実力をつけるということだ。自分に妥協し、自分をごまかさないことが大切だ。

 

かつて「読書百遍 意おのずから通ず」と言われた精神はどこへ行ってしまったのか? 鈴木国語は「読書百遍…」をやみくもにやるのではなく、合理化している。しかし、繰り返すということが不可欠であるのは、人間の本質にかかわる。優れた技芸を持つ人間で繰り返しをしなったものがいるだろうか?この点をよく考えてみる必要がある。

 

中学受験の良い点は、真に自分でやり抜く人間だけが合格するという点だ。その意味で、大人になるための試験だと言える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5 最期に、国語の勉強の仕方として(他の科目でも同じだが)、選択問題中心だから選択問題ばかりをやるとか、記述問題中心だから記述問題ばかりをやるというのは、愚かだ。サプリメントのみで生きていこうとしているようなものであって、まともな力がつくはずがない。記述問題の根拠を見つけ正確な記述をすることと、選択問題の根拠や×の部分を見極める目を養うことは、ほぼ表裏一体の関係にある。どちらもできて初めて精密な読解力をつけることができるのだ。中学受験の国語(国語ばかりではないが)の良いところは、小手先のテクニックというようなもので解くことを求めない、魂のこもった良い問題であるということだ。正面から果敢に取り組む意味がある。

 

なお、これは信義の問題です(したがって、法的拘束力はありません)が、祝日特訓と同様、志望校過去問指導を利用しておいて、12月で鈴木国語をやめるというようなことはしないでいただきたい。そういう人間のために無料のサービスをする理由はありません。無料で過去問を見るのは、鈴木国語の合格者を増やすためという、自由主義社会における正当な企業目的のためであり、慈善事業をしているわけではないからです。生存権以上の利益を得ようとする人々に対する慈善事業は必要ありません。