よくある質問

*それぞれの質問をクリックしてください。回答へジャンプします。上から順番に見ていくこともできます。

Question1:読書をすれば読解力がつくのですか?

Question2:新聞を読めば読解力がつくのですか?

Question3:作文を書けば記述力がつくのですか?

Question4:テクニックが大切ですか?

Question5:傾向と対策が大切ですか?

Question6:試験慣れが大切ですか?

Question7:国語って才能ですか?

Question8:宿題をやれば力がつきますか? 

Question9:あるお母様のお問い合わせメールに対する返信

   「夏期講習の6日間で簡単な読解の方法を学ぶことができますか?」
Question10:低学年から勉強すれば国語の力が付きますか?   
Question11:大手塾と鈴木国語に通うのは体力的にきついのですが…?
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Question1:読書をすれば読解力がつくのですか?

Question2:新聞を読めば読解力がつくのですか?


Answer

ただ本や新聞を読んでも効果はありません。書いてある内容がすぐには飲み込めないレベルの文章を選び、その内容を隅から隅まで把握できるまで徹底的に読み込まなければなりません。そのような方法・態度での読書をすれば読解力がつきます。

まず、読解力とは言語を道具とする思考力です。思考力とは論理力です。論理とは判断と推理のことですが、判断と推理を積み重ねて、「あることについてつじつまの合う理解や説明ができる」ということが、論理力であり思考力です。したがって、読解力とは、ある文章の内容についてつじつまの合う理解や説明ができるということです。

 難しい文章についてつじつまの合う理解や説明に到達するためには、あれこれと考え、行ったりきたりしながら、何度も繰り返し読むという作業が必要になります。これをしているうちに、あるときその文章の言いたいことが、つじつまの合う形で自分の頭の中にイメージできるようになります。これは感覚的には文章が透明になったように感じられる瞬間ですが、まさに「読書百篇意自ら通ず」というわけです。

ここでおもしろいことに気づいてください。思考作業は「試行錯誤」の作業であるのです。あれこれ試行錯誤を経て、つじつまの合う説明に到着する。したがって、思考力をつけるためには試行錯誤をしなければならないのです。


 そこで、読解力をつけようと思ったら、自分にとってむずかしいと感じられるレベルの文章を選ぶことが必要です。次に、その文章の述べたいことが、つじつまの合う説明として把握できるまで、あれこれ試行錯誤を重ねながら読み込まなければなりません。このような作業をいくつもの文章について積み重ねていくうちに、次第に高度の読解力を獲得することができるのです。

私は、入試問題で充分な点数が取れないレベルの皆さんが、読解力をつけるためには、いわゆる「読書」は効果が少ないか、まったくないか、あるいは、有害であるとさえ思っています。それよりもむしろ入試問題集を一冊買ってきて、その文章を徹底的に読み込むほうが効果的に読解力をつけることができると思います。読書はそうして読解力をつけた後にすればよいのであり、読解力がないのに、「本を読めばよい」などという無責任なアドヴァイスを信じて、結局、読解力をつけずに終わる、ということのないようにしてほしいと思います。

 ついでに言えば、たとえば「ハリー・ポッター」を何冊読んでも、ほとんど効果はありません。具体的な事実が連続的に記述されているだけですから、その内容は漫画や映画のように容易にイメージできます。これは読解力、したがって、思考力の本質である論理のトレーニングにはならないからです。

また、「天声人語」を読めば読解力がつく、というのも間違いです。読解の基礎力をつけるにはもっと構成の明確な、内容のはっきりした論説文を選んで、練習台にすべきです。「天声人語」は随筆的な性質を多分に持つ点と含蓄や示唆に富む点で、論理力の練習台としては不向きです。

 私は、これらの作品を否定しているわけでも、読むなといっているわけでもありません。読解力を「つける」ための練習台としては適切ではないと言っているに過ぎません。

*ちょっと無駄話をしますが、次の二つの英文の違いは分かりますか? 
  なぜ、前者では“
Who”が使われ、後者では“Which”が使われるのでしょうか?

  Who do you think is fit for the post, he or she?    

  Which is fit for the post, he or she?

think”という動詞は、あれかこれかを選択するだけの場合には用いないからです。“think”という動詞は、「試行錯誤」の結果思考対象を明確化する場合に使うものであり、それぞれの人についてあれこれと適不適を考えることができ、どちらかを選択しなくてもよい場合に使うものだからです。故に、不特定範囲から対象を特定すべき“Who”とともに使われ、特定範囲の選択に過ぎない“Which”と一緒には使われないのです。つまり、英語でも“think”とは「試行錯誤」を本質とするものだということです。

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Question3:作文を書けば記述力がつくのですか?


Answer 

ただ作文を書いても記述力はつきません。論理的に説明する作文の練習をしなければ記述力はつきません。

作文には、大別して二つがあると思ってください。一つは、「いつ・どこで・何が・どうした」という事実を中心とする作文。もう一つは、ある問題について答えを導くことを目的とし、そのための論理過程を示す作文。前者はいわば散文的作文であり、後者はいわば説明文的作文です。

 記述力というのは、論理的な説明のことですから、後者の説明的な作文の練習が必要です。仮に自分は小説家になりたいという人がいたとしましょう。あるいは詩人になりたいという人がいたとしましょう。その人こそ、後者の説明文的な作文の勉強を徹底的にすべきでしょう。詩や小説を書く場合には、物事や人物の行動・気持ちの観察が必要ですが、この観察とはただ目に映るものを見ることではなく、論理の力で本質をスキャンすることだからです。また、小説や詩が、あるテーマを描き出すように構成するのも論理力だからです。自分の使う表現技法が適切・有効なものであるのかを判断するのも論理力だからです。もっと根本的な着想すら、その作家の全経験を総合し抽象化する論理の問題であると思われるからです。

 では、そのような論理的な作文の力をつけるには何をすればよいのでしょうか。

まず、論理的な文章の書き写しをするのがよいでしょう。
  次に、論理的な文章の要約をするのがよいでしょう。

第三に、論理的な文章の論旨を踏まえ、自分で具体例をあげて、筆者の論理を展開してみるとよいでしょう。

第四に、論理的な文章の論拠を踏まえた上で、これに反対する論理を展開してみるとよいでしょう。

 これらは基本的にはすべて人まねですが、「学ぶ」とは「まねぶ」ことであり、人まねから出発するといえます。たとえば、ピアノなどを習うときに、初めから自分の思い通りに弾くなどということは出来るものではありません。まず先生の「まね」から入り、それを無数に積み重ねていくうちに、自分らしい演奏ができるようになるのでしょう。文章だってそれと同じで、でたらめを書くよりも、しっかりした文章を暗記するほどまねるところから出発した方が、確かな力をつけることになるのです。ですから、作文力のない人に「自由に書きましょう」などというのは、「でたらめを書きましょう」というのに等しいわけです。

 ちなみに、よく若い人がホームページに自分の「詩」を発表していることがありますが、単なる「思い」を行分けして連ねても、残念ながら「詩」にはなりません。そんなような「気分」になっているだけのことです。

 では、論理を鍛えると感情がなく冷たい人になるのでしょうか。情感豊かな文章は書けなくなるのでしょうか。論理(理性)と感情が競合するものであれば、この論は成り立ちますが、両者は本来領域をことにするのであって、どちらかが成り立てばどちらかが否定されるというような矛盾関係にはありません。ですから、たとえば、ファーブルの観察や実験は極めて論理的ですが、文章には独特の詩情や愛情が感じられるわけです。また、ナサの宇宙科学者故カール・セーガン博士は「コスモス」の中で「星屑が星について考える」と人間存在についての深い洞察を詩情豊かに述べていますが、宇宙論という論理が詩的であることすら示しているといえるでしょう。つまり、論理は冷たいなどというのは根拠のあるものではありません。逆に、感情ばかりの人というものがいるとすれば、その人とは、勉強・仕事・政治・経済などの論理が絡む話は一切出来ないことになります。その人は社会生活困難ということになるではないでしょうか。

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Question4:テクニックが大切ですか?


Answer 

これは、一定の実力を前提として初めて役に立つものです。逆に、テクニックなどは一定の実力がついてくれば、自然と身についてくるものともいえます。分かりやすい例を出せば、イチローのテクニックは小手先だけのテクニックであるのか、実力であるのか、ということです。後者であることに異論はないはずです。たいして実力もないのに小手先のテクニックだけを求めていれば、永遠に実力をつけずに終わってしまいます。

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Question5:傾向と対策が大切ですか?


Answer 

確かに多くの学校で「漢字は5問、物語文1問、論説文1問、記述中心」というような出題傾向はありますから、それを知っておくことは、試験を受ける以上必要不可欠なことです。しかし、これは大雑把な地図をもつということに過ぎません。

 注意すべき点は、毎年同じような出題形式であっても、その中身である文章や問題は同じではないということです。また、問題の難易や自分との相性も毎年一定ではありません。そこで、大切になるのが、それらの中身や変動に対応できる実力です。そして、一般に中身に対応できる実力があれば、変動には対応しやすく、合格確実性が高まるということです。これを裏返せば、志望校対策によって合格できるわけではないということです。対策が生きるような国語の実力(読解力・記述力・漢字・文法・知識)をつけて初めて確かに合格できるということです。この実力(どこの入試にも共通する)をやしなうことを忘れて、安易な志望校対策に走るのはきわめて危険であるといえます。これはどの科目についても当てはまります。

 塾によっては、受験までは「傾向」「傾向」と連呼しておきながら、新傾向が出題されるや否や「新傾向」と騒ぎ出すところがありますが、この点をどう理解すればよいのでしょうか。「新傾向」というものはどんな知恵を絞ってもまったく予想がつかないものであったということでしょうか。そんなことはないはずです。よほど奇異な問題ではない限り、実力さえあれば解ける問題であるのが普通であるのです。たとえば、国語の選択方式の問題が記述方式に変わったとしても、きちんと国語の読解力と記述力をつけておけば、別に大騒ぎするほどのことはないわけです。にもかかわらず、「傾向…傾向…」といっておきながら、ちょっと出題傾向が変わると「新傾向…」と大騒ぎをする塾は、実は一面的な不十分な勉強しか教えていないということではないのですか。それは耐震偽装に等しいともいえるでしょう。根本的な力をつけるという確かな地盤を築いた上で、傾向に対する対策をしているのであれば、特に「新傾向」などと大騒ぎをする必要はないはずです。

 選択問題ばかりの学校を受験するというので、選択問題だけをやっていればそれでよいというわけではありません。受験生の中には文章の内容など分からなくても、選択はできるという人もいますが、たいていの人は文章が読める力をつけることを根本において、選択の練習をするほうが点数を伸ばしやすいといえます。相撲でいえば、強いのはやはり「地力」といわれる根本的な力をつけた相撲取りであるのと同じことです。

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Question6:試験慣れが大切ですか?


Answer 

試験慣れが必要でないとはいえません。試験時間と試験内容の分量から、その問題をどのくらいのペースで解けばよいのかの感覚をつける必要はあるからです。

  しかし、次の点にはよく注意する必要があるでしょう。それは、みんな同じように模擬試験を何回も受けているのに、したがって、みんな同じように試験に慣れているはずなのに、それぞれの受験生の試験の結果には大きな開きがあるのはなぜか、という点です。

  答えは、試験慣れということは、実力をつけるということではないということにあります。実力をつけた上で、あるいは、実力をつけるのと並行して、試験に馴れていくのであれば、試験の点数もよくなりますが、実力をつけることを忘れて、試験ばかりを受けていると結局点数は上がらないまま終わります。そんな試験の受け方は競馬の馬券の当たり外れに一
喜一憂しているようなもので、堅実な生き方とはいえないでしょう。

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Question7:国語って才能ですか? 


Answer 

以上でお分かりいただけると思いますが、国語は論理ですから、論理力を鍛えれば力はつくはずです。もちろん、論理力に才能というものもあるかもしれませんから、個人差はあるでしょうが、受験をするというような人で、まったく論理力がないという人はほとんどいないと思います。問題は明日を信じて論理力をつける努力をするかどうかの問題でしょう。

例えば「もう伸びません」などと悲観的に考える方がかなりたくさんいらっしゃいます。

 では、「もう伸びない」というのは、これから先の人生永遠に伸びないということでしょうか? そんなことがどうして分かるのでしょうか?逆にこの世に生まれた時から今日までまったく「伸びて」こなかったというのなら、オムツをつけたままで、言葉も話せないはずですから、これは事実に反します。ということは今日まで伸びてきたということですから、特別な妨害要因がない限り、これからも伸びるだろうと予測されるはずです。では、なぜ「伸びない」ように思えるのでしょうか。それは、自分で伸びの妨害要因を作っているからなのです。たとえば、身につかない宿題などをただやっているだけだったり、実力もないのに次から次へとただ試験をうけているだけだったりという、無策にあるのです。自分で伸びない原因をつくっておきながら、「もう伸びません」などとヒステリーを起こしているのは、あまりにも愚かというよりも「自己満足の感傷主義」といってもよいでしょう。最後の一葉の「ジョンジー」を思い出します。それはともかく、過去の時の積み重ねによってその未来において伸びてきたということは、これからも、同じように積み重ねによって伸びるということであるのです。自分の才能を伸ばすためにはどんな方法がもっともよいかを落ち着いて考え、そういう策を考え実行するという意味で伸ばす努力をすべきです。

 つまり、「才能」の有無を考えるよりも、誰にもある程度は必ず備わっている「才能」をどう伸ばすかの方法を考え、それを実行すべきです。

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Question8:宿題をやれば力がつきますか?


Answer 

Question13に対するAnswerを参照していただきたいのですが、国語に関する限り、漢字以外の宿題は無意味です。宿題を出して中途半端な予習をさせるよりも、授業の場で考えさせ、授業の場で解説し教える方がはるかに能率がよいといえます。鈴木国語では、漢字以外の宿題は出しませんが、読解力・記述力はもちろん、文法・知識の力まですべて授業の場で力をつけさせてきたと自負しております。なお、漢字は一定量を宿題として出すわけですが、漢字というものは、毎日、歯磨きのように、繰り返し習慣的に勉強すべきものですから、その限度で宿題を出しても、それは当然やるべき目安に過ぎないわけで、本当は宿題とは言えないわけです。

 ちなみに、理科や社会などは授業の場で覚えさせてしまえば、宿題はその範囲の復習だけでたりるといえますし、算数に関しても授業の場での演習を重視すれば、宿題の量はぐっと減らせると思います。塾は可能な限り教え方の効率化を図り、生徒の負担を少なくすべきでしょう。睡眠時間を削るのはへたくそな勉強と言えるわけですから。
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Question9あるお母様のお問い合わせに対する返信メール
 
「夏期講習の6日間で簡単な読解の方法を学ぶことができますか?」

Answer


お問い合わせありがとうございます。

「夏期講習の6日間で簡単な読解の方法を学ぶことができますか?」という点を中心にお答えいたします。

6日間でも「読解の方法」を学ぶことはできます。
しかし、6日間では「読解の方法」を体得することは通常はできないと思います。

「読解の方法」というものは、マニュアル化すれば、非常に単純なものになると思いますが、しかし、それを頭に入れたところで、文章の読解には役に立たないのが普通です。なぜなら、読解力をつけるためには、具体的な文章の論理的な分析を積み重ねることで、そこから経験的・帰納的に「読解の方法」を自分の中に作っていくことが必要だからです。抽象的に整理された読解マニュアルを知り、そこから演繹的に読解ができると思うのは大きな間違いです。

これは、特に不思議なことではなく、ピアノを弾く技術を身につける場合に、ピアノの弾き方マニュアルを覚えたところで、ピアノは弾けないのと同じことです。具体的な曲の練習の積み重ねを通して、弾き方を身につけていくしかないのと同じことです。

ただ、この読解技術の習得過程を合理化することはできます。昔の徒弟制度のように「何も教えないで学べ」というような不合理な方法ではなく、生徒が、「読解とは文章をこのように読むことであり、こう考えれば意味やテーマが納得できるのだ」と実感できるようにプリントや講義内容を工夫し、無理なく導くことで、読解の方法を比較的短期間で体得させていくことはできるのです。

しかし、それにしても、6日というのは時間的に短すぎます。6日ではワインは作れません。私はボジョレヌーボーのどこが良いのかわかりません。あんな未熟ものはワインではありません。

しかし、入試を最終目標にすれば、目標校合格レベルまで改善できるかもしれませんし、場合によっては最も得意科目にできるかもしれません。この点は極めて重要です。なぜなら、今国語が不得意なままで中学入試を突破したとしても、その後国語が得意科目になる機会はおそらく得られないからです。今度は大学入試で右往左往するだけだからです。逆に、中学入試の段階で国語に自信が持てれば、大学入試の国語に対しても立ち向かうことができるはずだからです。

そういう意味では、9月からでもぜひお通いいただきたいと思います。
ただし、メールの文面を拝見すると、お母様の勉強に対する考え方を大胆に変えていただく必要はあるように思います。

お母さま方は、「塾の日程を考えるとなかなか都合がつかなくて…」ということをおっしゃいますが、その塾の日程に意味があれば、国語力はついているはずではないのですか。塾に通うのは義務ではありません。勉強は自分の利益のためにするものであり、塾のためにするものではありません。今通っている塾の意味のない部分は切り捨て、意味のある部分だけ利用するというように発想を転換する必要があります。

お母さま方は、「塾の日程があるし、宿題もあるので、家庭教師ならなんとかなるのでは…」という発想で、現状を変えないで、家庭教師を付加するということをします。しかし、国語のプロ(?)家庭教師など役に立たないのが通常ですし、そもそも、何かを付加すれば現状が変わるという発想が間違っているのです。現状を変えるには、現状自体を自分で変革しなければなりません。デブはデブの現状を自分で変えるべきで、あやしい痩せ薬なんか飲んだところで意味はないのと同じです。

せっかくご質問いただいたのに、勝手なことを申し上げて申し訳ありません。しかし、鈴木国語はこのような「変な」考え方の塾であるということです。私のような過激な考え方は、寄らば大樹の現在の日本では異端に過ぎないでしょうが、私はどんな世の中でも私自身でありたいので、以上のようにお答えすることになった次第です。長々とすみません。

ご参考になれば、幸いです。

鈴木国語研究所・鈴木洋純


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Question10:低学年から勉強すれば読解力や記述力がつきますか?



●Answer 当研究所が4年生以下のコース設けていない理由について説明することで、回答とさせていただきます。

当研究所が、低学年のコースを作らないで、5年生から授業をスタートさせるのは、次のような理由によります。

まず、「早く受験勉強をスタートすれば、早く力がつく」という考え方に問題があります。

確かに、例えば、算数や音楽の演奏技術については早期教育が功を奏する面が大きいと言えます。(但し、教え方が極めて重要になります。)

しかし、国語について、早期教育をしても、せいぜい漢字やことわざを覚えさせるのが関の山で、それ以上の効果は期待できません。

ですから、低学年から大手塾のにかよっていても、結局、5年生から始める生徒とほとんど変わらないと言えます。

実際に私は、鈴木国語に来る生徒について、そのような比較をしているわけです。

これは、子供の脳の発達と関係があると思われます。

中学入試で要求されるのは、ある程度抽象度の高い論理的な思考力です。

ところが、脳が、このような抽象的・論理的な思考力に耐えられる程度にまで発達するには、12歳程度になるまで待たなければならないと思われます。

実際、小4の生徒に、小6でやる抽象度の高い文章を、どんなに丁寧に解説してやっても、ほとんど受容することはできないと言えます。

ところが、小6くらいになると、これを受容することができるようになります。そして、この段階で国語の論理的な読解・記述のトレーニングをすると、飛躍的に力がついてくるというわけです。この時期、女の子などは反抗期になり、親を言い負かすほどに屁理屈を言うようになったりしますが、これが国語の抽象的で論理的な文章を受容する脳が形成された印とも言えます。

このように、国語の読解力・記述力をつける問題は、子供の脳の発達と関数の関係にありますので、よく子供の理解力の発達程度をにらみつつ、慎重に対応していかなければなりません。

ですから、5年生から始めると言っても、これはまだ6年生への助走期間・準備期間にすぎないわけで、まず、平易な文章を用い、基本的な読み取り方の練習を繰り返して身につけさせつつ、ほとんど彼らが意識しないような形でスロープを上るようにしてやる必要があります。このような慎重さを欠いた大手塾の試験の成績などはいったん無視していただきます。

次に、5年生の12月ごろから6年生の6月ごろにかけて、やはり徐々にではありますが、一般の入試問題に対応できるような状態へと、生徒の対応力を大きく転換させます。こうすると、7月初めの合不合判定予備テストなどで、今までとったことのない偏差値68というレベルに達する生徒も出てきます。

6年の夏休み中は、大手塾の講習や合宿という浪費によって力が落ちないように、やや基本に戻して、夏期講習を行います。

そして、秋から、これまでよりさらに高度な文章を、基本を失わないようにしつつ、入試にも対応できるように演習します。

こうして、入試本番までかけて高度な力の養成を行います。

当研究所は、概要このような方針で、読解力・記述力・それに対応できる「考える力」を養うことを目的としておりますので、5年生からのスタートとなるわけです。

かつて、4年生「読書」コースをやっていた時は、月8時間で授業料月1万円というほとんどボランティア的な形でやっていましたが、これは「4年生は、まだ国語の受験勉強はしなくてもよい」というメッセージも込めたものであったのです。


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Question11:大手塾と鈴木国語に通うのは体力的にきついのですが…?

●Answer

私は、やり方がよくわからない国語のみ塾に通い、あとは過去問やネットを参考に自力で勉強する方が効率が良いのではないかと思いますが、特に大手塾との併用を否定するものではありません。 大手塾と鈴木国語に通う場合に、鈴木国語に通いきれないと言ってやめる生徒がいますが、通いきる生徒もいます。


両者の違いは何なのか、ということを改めて考えてみました。


一般にはすぐに「体力の違いだ」というような答えが返ってくると思われます。



しかし、「貧血」あるいは「低血圧」を思わせるような、どうみても「体力のない」女の子でも、ちゃんと鈴木国語に通いきり、国語も最後に大きな伸びを見せて桜蔭に合格した例もあります。この例からすると、単なる「体力」では説明できないものがあるように思います。


そもそも「体力」自体よく考えてみると内容の不明確な言葉です。

たとえば、柔道やレスリングや陸上短距離や水泳の選手は、たくさん食べて筋力も強く「体力」があると言えるでしょうが、マラソンの選手は体がボロボロになる一歩手前くらいの肉体で42.195キロを完走します。マラソン選手は「体力」はないというべきかもしれませんが、他の体力競技の選手はマラソンではマラソン選手に勝てません。

「体力」という言葉は世の中でなんとなく使われている内容の曖昧な言葉ではないのかと思われます。ちょうど血液型で人の性格を判断するのに近いような言葉ではないかと思います。


私は、勉強への対応力は、勉強の基本技術の問題ではないかと思います。


たとえば、小さい時から漢字の練習をしてきて、その習慣がついており、漢字に慣れている生徒にとっては、漢字をマスターすることはたやすいことです。「憂鬱」の「鬱」のような字にしても、いくつかのパート(「木」「缶」「木」「冖」「※」(←これは代用)「⊔」「匕」「彡」)に分けて覚え、それを再構成することは容易であり、すぐに覚えられるわけです。


これに対して、漢字練習の習慣がついていない生徒にとっては、外国人が漢字を習うのに近いものがあり、意味不明の記号を組み合わせるように感じられるのではないかということです。


前者はストレスなく、漢字をどんどんマスターできますが、後者にとっては漢字をマスターするためには大変なストレスに打ち勝たなければなりません。


それはちょうど、譜面の通りにピアノを弾ける人と全くのド素人の違いにも似ています。後者は鍵盤を抑えるだけでもかなりのストレスを感じます。


そして、この漢字を練習することにストレスを感じず、漢字を難なく覚えられるという基本的な技術(能力)が勉強にとって決定的な意味を持つのではないかということです。


こういう生徒は、読解にもとにかく取り組むという態度を持っています。解説もよく聞いてメモを取るということが自然にできます。やり直しも、涼しい顔をして短時間で正確にやり直します。一言でいえば、作業をいとわない、と言えるでしょう。


漢字練習という単純作業(というほど単純かどうかはさておき)をこなすという基本的能力が、勉強の推進力につながり、勉強の推進力がその読解・記述・選択の勉強を通して高度な思考力のトレーニングをもしてしまう、ということになるのだと思います。


こういう生徒は、大手塾と鈴木国語に通っても特に問題はなくこなしてしまいます。6年秋からの過去問指導や祝日特訓も出てきますし、講習などにもそれなりに出席します。


ところが、この単純作業能力が不十分な生徒は、そういうことが大きな負担になります。そこで、鈴木国語をやめれば負担が軽くなるように思ってやめます。しかし、やめて大手一本にしても、この能力を鍛えるわけではないので、結局伸びないで百人なみの結果になってしまうわけです。


ちなみに、秋からの大手塾の志望校対策に参加しなければならないというのも、鈴木国語をやめる理由とされます。志望校対策が本当に対策となっていればよいのですが、国語の過去問をむやみやたらにやって答え合わせだけしても、何の対策にもならない、ということはやめる皆さんはほとんど考えていないように思います。


話をもとに戻しましょう。この単純作業能力は、特に小さいうち(小4くらいまで)に身につけるとよいと思うのです(その意味で公文が良い)が、小さいうちから大手塾に入り塾らしいことをするものですから、この能力をしっかりと身につけないまま小6になり、受験を迎えてしましまうということになります。


では、小6になれば身につけられないかというと、そんなことはないと思います。トレーニングをすれば、小さい子より早く身につけることができるかもしれません。しかし、トレーニングをしないのです。難しい問題に目を奪われて、あるいは、宿題に追われて、あるいは、志望校対策とやらに気を取られて、たった10分のトレーニングをしないのです。自分向けにカスタマイズした勉強をしないで、自分以外のものに合わせようとするから、たった10分のトレーニングができないのです。


この基礎トレーニングの不足という問題は、たとえば、塾のトップのクラスの生徒と準トップのクラスの生徒との間の間の差ともなって表れます。両クラスのメンバーの大半は(多少の入れ替えはあっても)どちらかに偏っているはずです。準トップクラスの生徒はトップのクラスの生徒にはなかなか勝てません。


準トップのクラスの生徒がトップのクラスの生徒に決定的に勝つには、同じことをしないで、一旦自分の勉強の範囲を制限して、自分の勉強の内容をより徹底的なものにすべきです。つまり、たとえば、a・b・c・d・eという五つの項目をやらなければならないと思わないで、あえてa・b・cに限って、その代わり、a・b・cについては誰もかなわないほどの正確さとスピードで処理できるように徹底的にトレーニングするのです。これを繰り返していくと、残したd・eも難なくできるようになります。徹底的トレーニングを通して不足していた基礎技術を高度化することになるからです。そして、それに支えられて応用発展力も磨かれるからです。


これは、底辺のクラスあるいは中位のクラスから這い上がろうとする生徒にとっても、もちろん、大切なことです。


しかし、多くの人は自分独自のものを恐れます。できる限り人に合わせようとします。自分の人生をどうするかは自分で決めるしかなく、それが自由であり個性であるのに、それを恐れ嫌います。


これは私にはどうすることもできません。




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